恋人同士と、ぶきっちょな愛を!魔法を!【改定、増補版】
第23話。
恋人同士になる前には、相手を想う時間と、付き合ってもらえる確率は「反比例」する。
また、考えている時間と、具体的な恋愛行動をする確率も「反比例」する。
相手のことを夢想する時間と、現実の彼女、彼氏のとる行動に落胆する確率は、「比例」する。
考えたり、夢想する時間は、弱い。ひとりぼっちの勝手な偏った世界だから。弱い。
しかし、もう恋人同士ならば、相手を夢想する、想う時間は「超大事」に変わる。
ひとりぼっちの世界は、いつの間にかなくなって、否応なしにいるから。相手が。
自分の世界に干渉する。恋人、他人。
うわっ。
さて、恋人同士になると、恋人同士の継続期間と、相手のことを考える時間は「反比例」するようだ。
空気のような存在というのも、まあいいものですね。それも確かにありがたい。
しかし、人間はやっぱり快楽に惹き付けられる。スリリングな性愛だったり、うれしいサプライズだったり、とろけるような甘い言葉だったり。
それがなくなったり、感じなくなると、関係は終わったりする。または、知らん顔して、嘯く。あ、うそぶく。これは、恋の、愛の「低温火傷」
ぼくは、男で、女性が好きです。イザナギとイザナミという神さまたちが感じたように、「別の可能性」としての相手は理解し難い。
ぼくたちは、何か足りない自分を探しているのか?
ギリシャ神話ではアポロン神に切り裂かれた半身を求めるから。だとか…
それくらい熱い、業のようなものという意味か。
だから、神話では「厄災」とされるし、キリスト教の使徒や伝道師は「罪」とした。
仏教では、「女人禁制」をしいた。
それくらいセックスは強い。異性は強く、強く、ぼくたちを引き寄せる。
それはでも、関係は「障害」によって強くなるような気がする。
逆に。
障害があるからこそ、情念は強くなり、業になるのでは。だからこそ、「禁忌」があるのでは。
セックスが好き放題になれば、反って空気みたいになるかも。ただスキンシップのひとつ。つまんない運動か。
気になるのは、セックスの罪や悪とされるものは、女性の悪とされた。歴史によると。
まあ、ぼくは何度も言ってきたのですが、セックスが女性側のものだからということでしょう。
イザナギとイザナミの話でも、最初にイザナミ(女)がセックスを誘って、「厄災」がおこる。アダムをそそのかすイブ。男性が作ったんでしょうな。神話ってのは。「俺は悪くない」ってか。
「恋愛」は強くて、美しいし、ロックだし、すべてです。
だから、「恋愛」したいのです。
最初は、相手のことはあまり考えず、シンプルに、相手に自分を伝える。投げ出す。
失礼のない程度に。
考えません。深く考えると、考えることなどないのですよ。
考えることは、いわば、逃げ口上。ださっ。
考えるのは、そのあと。
その前に考えるのは、戦術。
考えるのは、相手の「快楽」
高尚に言えば「幸せ」
考えるのは、恋人同士になってから。
そう、「幸せ」を。
セックスだけでは、繋がれませんし、継がらない。
「幸せ」を魔法のようにヒュッと隠す。
男なんだから。
女の子には、ぶきっちょな愛を、すみませんよろしくお願いいたします♥️
おしまい。
ありがとうございました。
イタリアンの「娼婦風パスタ」ってオマンコ風な味からネーミングがきているように確信しているSeiya*♥️です。オリーブ、アンチョビ、ケッパー、ニンニク…ほら。
ただ、それだけです(笑)
夜更かしです。タヌキのお膝元、おっぱいもんでねんねします。