第64話:友達のこととか。
ぼくの友人にかっこいい奴がいる。
寛容で、自分らしさがあって、人生を楽しんでいる。高校生時代からの付き合いだが、変わらない。いや、変わりはした、お互い、あの頃とは違うのだ。
しかし、常に現行の話ができるし、興味の分野は全然違うのだが、なぜか、仲良くしている。
いや、してもらっているというのかな…
もう本当に付き合い悪いからね。俺は。
でも、この友人だけは、「あ、会いたいなあ」とか、「この話したいな」とか思える唯一の人。
っていうと傷つく人とか、お前は本当に悲しい奴とか言われそうですけどね。まあ、本当だからねえ。
仲が良かったとか、友人とか、恋人とか、元恋人とか、家族とか、親戚とか、隣人とか、近所の親切な人とか、昔のクラスメイトとか、片思いの相手とか、まあ、いろいろ思い出ってありますね。
で、彼とは、はっきり言って思い出とか無いんです(笑)
元彼女とか、「HALCALI」の曲聴くと思い出したり…数年後は小沢健二とSEKAI NO OWARI「フクロウの声が聞こえる」を聴いたら「かりんちゃん」思い出したりするだろうし。
彼とも、関係が終わった時に何か音楽が鳴り出すのか?
いや、彼とは、10年後も馬鹿話したいです。
そんなわけで、「かっこいい奴」ありがとう。
10年後。どうなってるかね?俺ら。
楽しみに待ってます。10年後を。
あ、彼には勝手に小沢健二さんの「ぼくらが旅に出る理由」を捧げたいです。
第63話:「ギューッ」と生きてみる?
時間がギューッとつまった30分。誰かにとってはなんてことない30分。時間の感覚はすごく曖昧で、「ギューッ」な時間は長く感じるし、あっという間にも感じる。
日々の生活とかも、案外そうですね。
「ギューッ」は反動で疲れる。
時間の感覚がつまって、もとのパターンにクールダウンする必要がある。
「ギューッ」は素敵だけど、「ギューッ」は不自然。
「ギューッ」は人生の本質な気がするが、それは、「エッセンス」のようなもので、水とか、お湯で薄めないと、スープとして「おいしい」とはならないのです。
ある日、突然に全然違う生き方を選択するのは、素敵に感じるし、わくわくする。
でも、それは、「ギューッ」な時間と、同じで、反動で疲れ果てたり、不自然だったり、「まずい」ことなのかしら?
何度も言っている、「魔法の時間」はたまた、「時間の魔法」か。
ただ、全然違う生き方ってのも、手札には持って置きたいです。
人生が「間延び」じゃあやっぱりよくないしね。
人生が「相互に妥協」も、ちょっと悲しい。
ただ、「ギューッ」も自制心で舵取りしないと。
悩みも面白いけれど。
「大人になりずいぶんたつ」からね。
不思議ですけど、よく知らない女の子と突然一緒に生活したり。
「ギューッ」ですね…疲れるなあ
ただ、「ギューッ」には「魔法の甘さ」があって、「間延び」には、諦めと、「生暖かい初夏の不快な風」がある。
ぼくは、変わってんのかな。
真珠色の天使の残り香か。三保の松原の羽衣か。
天使の羽音と、ボディソープのいい匂い。
もうひとつ不思議。それは、「突然」を考えたりすると、仕事で出世してやるぜ!ってなるな。
家族旅行に~なんつうので野望なんか抱けるかい!
女、いい女。くそー!人生の本質は、「ギューッ」は「女」か!
俺の人生クソゲーだ。
第62話:タトゥーについて。
こんばんは。seiyaです。食べ過ぎました。
しかし、まあ、筋トレ、減酒、により、精力回復、毎日朝勃ち、身軽、と、現在seiya史上2番目のフィジカルを誇っております。
ところで、「タトゥー」皆様はどう思われるでしょうか?
ぼくは、サッカー選手や、格闘家が好きだったりします。
「かっこいいなあ」って。
ヨーロッパのサッカー選手なんかは特にタトゥーだらけですよね。今や、「あのメッシ」まで、「ひげ面タトゥ男」に…
もうね、「タトゥ男」じゃない選手のほうがすくなくね?って。
「CR7」くらいか…車の名前じゃあございません(笑)一応ね。
それから、「山本kidさん」彼、本当に好きで。
本まで買いましたからね。もうないけれど。
今も、Youtubeで映像観ます。
そして筋トレ。
KIDさん、本当、「タトゥーだらけ男」ですね…
ちょっと見ない間に増えるは、デザインは変わってるわ(どうやって?)塗りつぶすわ、もはや「柄か!」って。
彼とか、ベッカムさんくらいになると、もはや「皮膚柄」腕なんて「ロンTか!」ってなりますわな。
ただ、男ってちょっと「悪い感じ」にあこがれますよね。で、seiyaも意外に「タトゥーいいかもな」とか考えたり。ふとね。
では、なんにするか…
「イルカ🐬」!イルカ好きなんです。
ちなみに画像は「ロッキングオンジャパン93年8月号の小山田圭吾(コーネリアス)さん」
それか、「コロ助」
それか、「小沢健二」
どうすかね…
女の子のレスポンスを想定すると…
「イルカ🐬」
「イルカ、好きなの?いいじゃんオシャレ💖」
「コロ助」
「かわいい💖(何で?オタクかしら…)」
「小沢健二」
「??(何?誰?ってか自分の名前!?丼引き)」
…………………………………⤵️
女のタバコと、タトゥーは絶対嫌‼️なseiyaでした。
せふぃに、おーじゅるでぃ、とはわいえ!
第61話:「生きろ、どんな手を使っても」土方歳三と近藤勇。 10代とか20代の人たちに思う。「願う」こと、それは、「弱さを含んだ、強い気持ち」か。
「生きろ、どんな手を使っても」
この名台詞は、
NHK大河ドラマ「新選組!」(三谷幸喜作)の中で、敗残の新選組が包囲され、新政府軍に出頭することになった局長近藤勇に副長の土方歳三が言うんです。
これは、本当に最高の台詞だと思うのです。
常に命をかけて戦い、死を恐れず、死を厭わず、規律のためには、仲間をも死に追いやる、そんな鬼の副長土方歳三が、
「どんな手を使っても」です。
確かに土方歳三は純粋な武士道精神の持ち主ではなく、出生からしても、合理精神に基づいたリアリストである。
「名誉のために切腹する」と考えた、近藤勇をとめ、
「生きろ、どんな手を使っても」
わかる。
でも、これは、「生きてさえいれば、また再起をはかれると考えた」とか、彼が、リアリストだとか、合理精神じゃなくて、「願い」であるのです。
新選組を作ったのは近藤ではないのです。
土方が、一切の私心を捨てて「最強の組織」を作った。
鉄の意志で。
その彼が、最後は「願う」しかなかったのです。
近藤を送り出した土方は、すぐに幕臣、勝海舟のもとに近藤の助命嘆願に向かう。
土方には、近藤が助かるとは思えなかったから。
新選組は最強になった。しかし、結果は残酷だった。
「願う」こと。土方は、この後も戦い続けて、函館で、戦死します。
しかし、ぼくには、近藤との別れがある意味「土方歳三の死」でもあるように思える。
最後は「願う」しかなかった。
どんなに強い人間も、強くなっても、「願う」ことしかできなかったのですね。
「願う」ことか…弱さを含んだ、強い気持ちですね。
そうか。「弱さを含んだ、強い気持ち」か。
ぼくもね、だんだん涙もろくなってきててね…
一番悲しい気持ちになるのは、
「自分より若い人の死」
「自分より若い人の自殺」
本当に、悲しくなる。やっぱりつながっちゃってるなあ…
ぼくは、父を自殺で失いました。
でも、今も、その時も全く悲しくなかった。
死んだほうが彼のためだと思ったからです。
しかし、若い人は絶対にそんな事はないのです。
今、どんなに苦しくても、どんなに周りの人に大切にされなくても
「生きろ、どんな手を使っても」
この言葉だけは言いたいのです。
「生きろ、どんな手を使っても」です。
第59話:長文前編です。「ぼくは、本当の事が知りたかった」鏡の国のアリス的に真実に触れる女の子と、分からないまま中二病の歌を大合唱する男の子
第59話。「本当の事」がずっと知りたかったのですよ。中学生くらいの頃から。
「本当の事」って何の事かは自分でもよくわからなかったのですが、世界や、社会ってものに、自分の見ているものとは違う側面があるのだ。と。
でも、なかなか「糸口」は分からなくて、そのうち日常がずっとあるので、そんな事は考えなくなってしまいました。
ただ、こんな変り者seiya。時にずきずきするその感覚にうんうん悩んだり。
こういう時、ある意味残酷な事でもあるのですが「女の子」はリアルな別側面に、パッと入り込んだりします。それこそ「鏡の国のアリス的に」
スルーザルッキンググラース!
クラスに何人かいた勘のいい、愛されたりない女の子たちとか。
昔はバカな女とか思っていました。ニセかわブス女とか。
しかし、今はちょっと分かる。
そう、勘のいい、愛されたりない女の子たち。
本当は、とっても素敵なかわいい娘たち。
男は真実というか、人間の闇というか、もうひとつの世界に「スルッと入る」のはなかなか難しい。
そもそも、門がない。
「鏡の国の」女の子たちが、大人の闇で目を光らせる時、男の子は中二病の歌を大合唱するのだ。
わからないから。怖いし、なんだか心が痛むから。
ぼくは、女の子の「アリス体験」が羨ましかった。
真実はきっとそこにあると思ったから。
女の子は強く、ぼくは、弱かった。
そう、単に弱かったのだ。
本とか映画とかは、ぼくにも分かるように、その真実をある程度写し出していた。しかし、体験したリアルでなければ分かる事なんて何にもなくて、20代のぼくは、女の子に極端に負い目を感じていたのです。
本当の事を常に女の子は知っていて、ぼくより、不細工で、デブで、口が臭くて、かみが不潔で、小汚ないファッションセンスの欠片もないゲスジジイの方が、「本当の事」を知っている…
文学や映画は、そうぼくを追いまくるのでした。
文章を読むと、リアルを掴んでいないぼくは、「知らない本当の事の側面」に潰されていた。
苦しいけど怖いし。
一方で、快活な恋や、「強い気持ち強い愛」みたいな恋愛観を懐刀として、つねに持っていて、冷静さとか、均衡を保っていたのかも。無意識に。
真実が何なのかはそれぞれで掴めばいいのでしょう。
と、今、すっかりリラックスして言えるのは、少しだけ本当の事に触れたからなのか?
本当の事には、でもやっぱり怖いものがある。
長く、その「放射線」にさらされたり、浴びたりしていると、結果は、とても残酷なものになる。
人は残酷で、自分に関わりのない人の痛みはなかなかわからないし、ぼくもそうだけど無頓着なのです。
そう考え始めると、またうんうん悩んでしまいます。
だってぼくらは結局、みんな繋がっているから。
社会とか、やっぱり世界とかはみんな、繋がっていると思うからです。
長くなるので、今日はこのあたりで。失礼します。
第58話:設定する自分の限界。挑戦の継続と、好奇心の持続
はあっ。
ふうっ。
忙しい一週間を終え、ひと息。いや。ふた息のseiyaです。
何か食生活や、生活スタイルを変えると、本当に体って変わってくるものですね。
先ほどまで、懐かしい山本kidさんのビデオ見ながら筋トレしていました。
やっぱり、男は体鍛えないと!本来そういうものでしょうしね。
精神も、肉体も、もっと野性的に、奔放に、原始的になりたいのです。
セルフイメージってのが、個々人にはあって、「その範囲内」で人は生き方を決めるようです。
だから、「ナンパなんてできない」というセルフイメージを持つ人は「ナンパできない」
上手くいくかは別として、「ナンパなんて普通にできる」というセルフイメージの人は「ナンパ、普通にできる」といった具合。
だから、やっぱり、最初はびくびくしながらも、挑戦するしかないのだ。
そしていつのまにかセルフイメージは変わる。
そういうことにこそ、楽しみを感じます。
自分の設定の限界は、広がり続ける。
それは、挑戦の継続と、好奇心の持続です!